リアルタイムで私生活の動力となっていく、未来のカラオケ

 

きのうの夕方、用事がありましたので、夕方から名駅さんに出てたんでしゅが、

ビッ○カメラさんの前の交差点さん渡ってましたら、

ジャ○カラさんってゆ~カラオケさんの店員さんが、客引きさんを

してらっしゃいましたです・・・(なみだ)。

ああ、カラオケ店さんって、いまはなかなか厳しいんだろうなアって

おもいまちた・・・。

で、カラオケさんが流行らないって言います状況は、

広義の音楽業界さんに取りまして極めて深刻な事態ですので、

もしかしたら、以前ツイートしてましたかも知れませんが、

改めまして、一策を案じてみまちゅ・・・。

なぜカラオケさんが流行らなくなりましたのか、

思想的な解は極めて単純なモノです。

それは、歌い手さんと聴き手さんが、同一空間内に

とどまっておられますからなのですネ。

・・ちゅまり、カラオケ店さんでのカラオケ歌唱を、リアルタイムの

通信で別の場所に飛ばせば良い、たったこれだけのコトです。

・・たとえば、ご自分さんのカラオケ歌唱さんを、

遠距離恋愛中の恋人さんのお部屋とカ、離れて暮らしておられます

ご家族のおうちとカ、或いは、

仲の良い、もしくは仲たがい中の友人さんのお部屋とカに、

通信メッセージとして、リアルタイムでお届けできますよおに

すればよろしいでありましょう・・・。

これは、カラオケ店さんでのカラオケ歌唱さんを、

単に、リアルタイムの通信メッセージとして、別所に流す、って

言うコトではなく、より深奥では、

カラオケ歌唱さんを、愛や友情や復縁等々の「媒体」として

用いる、ってコトでちゅ・・・。

いずれは、カラオケ歌唱さんを、リアルタイムの通信メッセージ、

リアルタイムの音声ラブレター、リアルタイムの音声友情交歓、

リアルタイムの音声復縁状等々として、用いますだけではなく、

カラオケ歌唱さんの「時間的要素」を、「文明の媒体」として再規定

できますよおになりますなら、

カラオケ歌唱さんに合わせて首を振る扇風機さんとか、

カラオケ歌唱さんに合わせてマッサージしますマッサージチェアさんとか、

その他、

遠距離恋人さんのカラオケ歌唱をリアルタイムで聴きながら

お料理とか、お風呂とか、果ては自慰とか(笑)、

いろ~んなコトができちゃいますヨ~^^。

まさに、カラオケ歌唱さんが、個人さんの私生活さんをリアルタイムで動かす、

文明的、ないし文化的な動力になりますのであります~☆

コレって、スゴいコトですよネ~(^o^)

(尚、カラオケ店さんを敢えて介する必要があるかないかは、

別途、将来的に考えていかなきゃならないでしょうと思います~)

選択権解放による、おくすりの民主化~^^

 

きょうは疲れてますのでかんたんに・・・。

おくすりさんを処方されるのはお医者さんです・・・。

でも、たとえば生薬成分さんなら、愛知県産さん、大阪府産さん、

鹿児島県産さん、

それに、大学さんで発見されました化合物さんなら、

東北大学さん産、名古屋大学さん産、長崎大学さん産、などなど、

同一の生薬成分さん、同一の化合物さんを、

つくられました場所毎に製剤化しましゅならば、

患者さんが選択可能になります、って思います~^^。

ちゅまり、お医者さんが一義的に処方されるのではなく、

産地別に、患者さんが選択可能になります、ってコトでちゅ。

おくすりのフランチャイズドですネ~☆

お医者さん 「この生薬剤は同一成分ですが、

愛知県さん産、大阪府さん産、鹿児島県さん産と、

産地別に製剤化されてますので、どうぞ選んでください」

患者さん 「う~ん、じゃあ鹿児島県さん産で・・」

ってゆ~感じですう~^^。

このよおに、服用されます患者さんご自身が、

おくすりさんを選択可能になりますと、ある意味、

製薬会社さんも、患者さんをステークホルダーとして

規定されざるを得なくなりますし、また、患者さんも、

産地・発見地別に、おくすりさんを順々におためししましたり

できますよおになります~。

これは、「おくすりの民主化」の、はじまりでしょう・・・。

おくすりさんには、ポリファーマシーなど、深刻な

もんだいも指摘されていますが、

選択権を患者さんに解放していけば、必ず、

良い方向に向かっていくハズでしゅ・・・。

わたくしは、希望を捨てたくありません。

製薬会社さんと、患者さんとが、分かり合えます日は

必ず、必ず来たります・・・。

超時間的(超物理学的)媒体としての「お食事」

いまさっき食べてまちた、セブンイレブンさんの「飛騨高原牛乳ミルクホイップ

揚げパン」さん、とってもおいちですう~^^。

「昔懐かしい」お味の揚げパンさんに、たっぷりぜいたくにミルクホイップが

挟んでありますと、すっごくステキ~(^o^)(^o^)(^o^)

伝統的に、と言いましても、それはせいぜい戦後以降でしょうけれど、戦後以降

食べられ、飲まれてきた一般的なメニューを敢えて高級化する路線って、タブン

あるでしょうし、そこには、潜在的にものすごい大きな需要が眠っているハズ

なんでしゅが・・・。

・・・例えば給食メニューさんなラ、昔の調理法のまま食材と調味料を高級化

する、あるいは、昔のレシピ通り調理して高級な食材を添加する、このよおな

方法論は、思想的にみますと、「昔の貧しさ」と「現代の豊かさ」とを輻輳

させて、ひとつのメニューの裡に両立させるコトであり、

「貧しさ」と「豊かさ」とを同時に賞味します、ってコトですよネ・・・。

富裕層、貧困層と言われますが、それらが画然と分かたれたのはごくごく最近

のコトだと思います。それまでは、いまほど極端な格差はありませんでした。

しかし、格差が出来てしまった以上は、限定的且つ疑似的にに、「元に戻る」

手段は必要です。

そして、既述のとおり、「貧しさと豊かさ」とを、ひとつのメニューの裡に

輻輳させ、同時に賞味できますお料理さんは、

そのもっとも手近な対象でありましょう・・・(なみだ)。

件の「飛騨高原牛乳ミルクホイップ揚げパン」さんではありませんが、

ひとつの食品、ひとつのメニューの裡に、貧しさと豊かさとのりょうほうを

輻輳させ、それらを同時に賞味します、ってゆ~コトは、

現在の裡に過去を味わい、過去の外延としての現在を規定する(=過去と現在と

の関係を再恢復する)コトでありますとともに、

疑似的なカタチで過去へと戻り、限定的なカタチで共に未来を創出するって

ゆ~コトです。

・・・ちゅまり、「貧しさと豊かさ」「過去と現在」のりょうほうを

輻輳させ、同時に賞味するためのメニューさんがたくさん出来れば、

「お食事」そのものも、単に現実の食欲を消費するためのモノから、

共に(疑似的に)過去へ戻り、共に(限定的に)未来を創出するための、

経済的意味、社会的意味、物理的意味を兼ね備えた特別な「媒体」に

なれます、ってコトなのかもしれまちぇん・・・(なみだ)。

ここには、恐らく、飲食行為の超経済的意味、超社会的意味は言うまでも無く、

超時間的意味までが含意されております。

わたくしの知る限り、これまで、先進国の食と途上国の食をつなぐ等々、

超空間的に食事を共有する試みはよくおこなわれていましたが、

超時間的に食事を媒体化するこころみは、それほど行われていたとは

言えません。

しかし、こうした試みが増えていかなければならないと、

率直に感じます。

(・・・ちなみに、わたくしは本稿で、「お食事」を、超時間的な

媒体と規定しましたが、

この論理は、ゲームでも、ドライブでも、商学的売買でも、きほん的には何にでも

援用可能と思われますので、

そうした周辺研究も、すすめばいいなって思います)

「一」と「多」を媒介する放送の在り方

「音楽」さんの聴き方は、ヒトにより様々でしゅが、

ざっくり仕分けしますと、

「屋内」か「屋外」か、というコトになりますでしょう・・・(なみだ)。

「屋内」は、自宅さんやコンサートホールさんの「中」でちゅし、

「屋外」には、屋外ライブさんや(携帯機器によります)モバイル聴取が該当します。

そして、「屋内」と「屋外」のりょうほうに、

「ライブ聴取」と「録音聴取」があります。

自宅さんでの「宅配ライブ」や、コンサートホールさんでのライブビューイングは、

比較的さいきん開拓された領域ですネ

また、「ライブ聴取」と「録音聴取」とを媒介する中間項は、

「通信聴取」である、って言えるかも知れません。


で、通信全盛の今日におきまして、改めて

「放送」について考えてみますと、例えば、

かつて米国さんのNBCさんが、アルトゥーロ・トスカニーニせんせいを

招いて創設されましたNBC響さんのえんそうは、

「百万人単位で、百万人が等しく享受する」コンテンツでちた・・。

この、かつての放送のあり方は、「世界がひとつの村になる」

ってゆ~マクルーハンの指摘どおりだった、と言えるでしょう・・・。


きのう、栄さんのすきやさんで、牛丼さん食べてまちたら、ラジオさんが

かかってました・・・。

・・いまのラジオさんでちたら、たとえば、闘病中、ないし被介護中の

「たったひとり」の方の為にプログラムを組まれまして、

そのプログラムを百万人で共有し、メールやケータイで、

いつでもどこからでも応援されますコトは可能でしょう・・・(なみだ)。

これは、「百万人の為のコンテンツを、百万人で等しく享受する」

かつての放送のあり方とは、全く異なり、

「ひとり」と「百万人」とを、即ち、「一」と「多」とを

同一のプログラムで媒介します、

「放送」の全く新しい存在態様となるのではないでしょか・・・。


縁起でもない、って思われますかもしれませんが、極端なお話し、

「ひとり」を「百万人」で応援しているラジオのライブプログラム中に、

そのおひとりさまが、亡くなってしまわれるケースだって、

あるかもしれません・・・(なみだ)。

逆に、妊婦さんを応援されますライブプログラムでは、

新しくお生まれになります命さんもございますでしょう・・・。

そのいずれにしろ、わたくし達(=「多」)は、ラジオさんを

介しまして、それらの瞬間に立ち会いますコトができます・・・。

テレビにおける映像の遠近法

据え置き・壁吊りのよおなおっきいテレビさんと、

アイパッドさんみたく手元でひっくり返ってみますデバイスさん、

それらの中間型・ないし統合型の新しいテレビさんの在り方を

思想的に考えますのは、けっこうムツカしいって思いまちゅ。

センサー内蔵してて、室内ストレッチやえち~行為等をセンシングして

画面が可動、なんて、べつにおもちろくも無いでしゅし・・・。

 

ひとつには、コンテンツで分ける考え方がありますですネ。

野球さんみたく動きの少ない遠景型のスポーツ中継を、

壁掛けのおっきいテレビさんで流しっぱなしにしながら、

手元のデバイスさんで、ゲームやウェブ、その他動きの激しい

スポーツ等を愉しむ、といったやり方でちゅ。

 

背景・遠景映像としての野球の文化的価値って、

あるとおもうんですネ。

それは、既述のとおり、据え置きや壁吊りのおっきなテレビの

社会的な意味での存在意義にピッタリ合致しまちゅ。

この思想さんを更に発展させますと、複数テレビさん間におけます、

映像遠近法が確立されますでしょう。

あたらしいテレビさんの在り方、もう少し、

いろいろと考えてみたいでちゅ。

 

「壁ドン」と刑法思想的淵源

さきほど、「同意無き壁ドンは、たとえイケメンさんでも、暴行罪ないし脅迫罪

に該当する可能性がある」ってゆ~とある弁護士さんのご意見につきまして、

少しツイートしたところでしゅが、

こうした刑法思想には、ひとつの法的淵源がありまちゅ。

それは、単に、(「壁ドン」含む)能動的行為者を、潜在的な加害者、

それらの能動的行為を受ける者を、潜在的な被害者とみなす、というコトでなく、

「暴行罪になろうが脅迫罪になろうが、「「壁ドン」したい・されたいヒトビト」を

結果的且つ意図的につくり出してしまう、ってゆ~コトでちゅ。

「同意無き壁ドン」が、暴行罪ないし脅迫罪に該当する可能性がある、

っていう法的見解が、刑事法学の善意であることは事実でちゅが、

その一般的な善意は、同時に、

それらの罪を犯し犯されても尚、壁ドンしたい・されたいヒトビトの

固有の存在意義へと転化してしまう、てワケでしゅネ・・・。

ここには、刑事法学的思潮の論理的限界があると同時に、

刑事法思想のひとつの法的淵源がある、と言って良いでしょう。