「一」と「多」を媒介する放送の在り方
「音楽」さんの聴き方は、ヒトにより様々でしゅが、
ざっくり仕分けしますと、
「屋内」か「屋外」か、というコトになりますでしょう・・・(なみだ)。
「屋内」は、自宅さんやコンサートホールさんの「中」でちゅし、
「屋外」には、屋外ライブさんや(携帯機器によります)モバイル聴取が該当します。
そして、「屋内」と「屋外」のりょうほうに、
「ライブ聴取」と「録音聴取」があります。
自宅さんでの「宅配ライブ」や、コンサートホールさんでのライブビューイングは、
比較的さいきん開拓された領域ですネ
また、「ライブ聴取」と「録音聴取」とを媒介する中間項は、
「通信聴取」である、って言えるかも知れません。
で、通信全盛の今日におきまして、改めて
「放送」について考えてみますと、例えば、
かつて米国さんのNBCさんが、アルトゥーロ・トスカニーニせんせいを
招いて創設されましたNBC響さんのえんそうは、
「百万人単位で、百万人が等しく享受する」コンテンツでちた・・。
この、かつての放送のあり方は、「世界がひとつの村になる」
ってゆ~マクルーハンの指摘どおりだった、と言えるでしょう・・・。
きのう、栄さんのすきやさんで、牛丼さん食べてまちたら、ラジオさんが
かかってました・・・。
・・いまのラジオさんでちたら、たとえば、闘病中、ないし被介護中の
「たったひとり」の方の為にプログラムを組まれまして、
そのプログラムを百万人で共有し、メールやケータイで、
いつでもどこからでも応援されますコトは可能でしょう・・・(なみだ)。
これは、「百万人の為のコンテンツを、百万人で等しく享受する」
かつての放送のあり方とは、全く異なり、
「ひとり」と「百万人」とを、即ち、「一」と「多」とを
同一のプログラムで媒介します、
「放送」の全く新しい存在態様となるのではないでしょか・・・。
縁起でもない、って思われますかもしれませんが、極端なお話し、
「ひとり」を「百万人」で応援しているラジオのライブプログラム中に、
そのおひとりさまが、亡くなってしまわれるケースだって、
あるかもしれません・・・(なみだ)。
逆に、妊婦さんを応援されますライブプログラムでは、
新しくお生まれになります命さんもございますでしょう・・・。
そのいずれにしろ、わたくし達(=「多」)は、ラジオさんを
介しまして、それらの瞬間に立ち会いますコトができます・・・。